1「楳木先生との衝突」 平成28年9月

平成二十七年十一月、その翌月の十二月に行なわれる御降臨祭に向け、私はメシヤ教での二回目の体験談の作成に取り掛かりました。作成に費やした日数は三週間で、その間は仕事も入れず、子供が幼稚園から戻る時間まで毎日ひたすら懸命に作成を続け、一通り体験談ができあがってメシヤ教の楳木代表にメールで送ったあと、急ぎ次の仕事を見つけ働きだしました。

体験談を楳木先生にメールで送った数日後、楳木先生から送られてきたメールは腑に落ちないものでした。そして、何度かやり取りを交わし、私の体験談は世に出ることはありませんでした。私は楳木先生に対し、表現しようもない大きな怒りと悲しみの感情を抱きました。そして、御神業に関わることは一年間は何もしないと決め、メシヤ教に所属はしたままですが、本部への参拝も箱根への参拝もやめました。

一昨年十二月に起きた楳木先生との衝突以来先生に対し、あれほど酷い言葉を言っておきながらなぜ一言も謝ってもらえないんだろうかと、数ヶ月間毎日のように考えながら生活しました。もう先生の顔も見たくないと思っていました。楳木先生との衝突以外にも家庭内でも問題が起きました。精神病がかなりよくなっていた父親の状態が急変し、平成二十八年一月下旬、突如今までにないとてつもなく恐ろしい精神病の状態となりました。しかもこれまでとは違い攻撃のターゲットが私になってしまい、これ以上父親と一緒に生活するのは無理だと判断し息子を連れて実家を出ました。借金を抱えながらの息子との二人きりの生活で、仕事と家事と育児で毎日が慌ただしく過ぎていき、楳木先生への感情も消えかかっていた頃ネットで平成二十八年度の地上天国祭での代表挨拶を読んでとても驚きました。楳木先生が(邪神に)やられてしまったと思いました。本当に驚きました。

メシヤ教の信者さん方は誰も気づかないのか、「宇宙の中心の種のような存在」と称する邪神に対し「ミクラタナの神様」だと勝手に信じ込み、めちゃくちゃな内容の霊憑りをみんな本気にしてしまっているのか、誰も楳木先生に助言する人はいないのか、助言しても楳木先生に丸め込まれてしまっているのか、私が楳木先生にメールで伝えるなりした方がいいのかと何度も思いました。ですが、今の楳木先生には何を言っても通じないんじゃないだろうか、言えば私が攻撃されるかもしれない、借金を抱えながら一人で仕事と家事と育児をこなすだけで精一杯の生活をしている私には今はまだ何もできないと思いました。そういった思いを抱えながらも一年間は何もしないと決めていたのでしばらく様子を見ることにしました。

そもそも楳木先生が邪神に隙をつかれ邪神の思うがままに踊らされてしまった原因は私とのやり取りが関わっていると思うので申し訳ない気持ちもあります。御神業に関わることといえど教団の代表にいろいろ要望したり自分の意見を伝えるということはなかなかやり辛く、どうしても言っておかなければと思うことは心苦しくても頑張って今までも何度かメールで伝えてきましたが、遠慮して言えずにいたことも多々あったので、遠慮せずにもっと言いづらいことも正直に先生に伝えることができていればこんなふうにはなっていなかったんじゃないかとも思えます。

世界メシヤ教復興のためにメシヤ様からメシヤ教開教を許され、十数年間メシヤ様の御教え通りにやってこられた楳木先生は本当に素晴らしい方だと思います。そんな素晴らしい方が崩れ落ちてしまうなんて信じがたいことです。こんなことが二度と起きないことを願って私と楳木先生との間で何があったのか詳しく記そうと思います。

平成二十七年の地上天国祭で私は体験談を発表し、ネット上に載せた文章はかなり長いものとなってしまいました。ですが、その時にはまだ載せたくても恥ずかしさのあまり載せることができなかった内容がありました。死にたくなるぐらい苦しんでいる人達のことを思えば勇気を出して一刻も早く発表しなければという思いがあり、次の大祭でも私の体験報告を入れてもらおうと決めていました。

地上天国祭後の七月から私は短期の派遣の仕事を始めました。仕事の休憩中にも携帯で発表文を作成していましたがなかなかはかどらず、十月いっぱいで派遣の仕事を終えたあと、次の仕事は入れず発表文の作成に取り掛かりました。最初の発表文の作成の時もそうだったんですが、作成中はコーヒーを何杯も飲みながらものすごいエネルギーを使って作成しました。起こった出来事や浄霊による御守護を綴るだけなら簡単だったんですが、その裏付けとなるものを探し出すのがとても大変で、これだと思う一文を見つけだすためにネット検索を何時間も何日もかかってやりました。裏付けのためのメシヤ様の御論文の引用もお言葉通りに正確に載せたくて懸命にネット検索をしても自分が探している御論文や御垂示になかなかたどりつけず、数ヶ月前や数年前に読んでうろ覚えだった内容を引用することになってしまったりと思うようにいかない部分もありました。ですが、作成中は自分でも分からなかったことがパッと頭に浮かんできたり、普段私はほとんどテレビは見ないのに、ふと耳を傾けたテレビを通じて知りたかった答えが分かったり、自分が思ったことに対し雷で合図をいただいたりと神様の御力をいただきながら発表文を作り上げました。そうして出来上がった発表文を楳木先生にメールで送った結果、予想もしていなかったことが起こってしまいました。

先生は私の作った文章が気にいらなかったんだろうと思いますが、最初のメールでの返事もあまりよく思っていないのかなという感じはありました。そして十二月には楳木先生のお計らいで我が家に御神体をいただいたんですが、御神体御奉斎の前日、楳木先生から打ち合わせをするということで先生が宿泊されるビジネスホテルのレストランに呼ばれました。その時に私は先生から思いもしていなかった言葉を言われました。信じられないほどの酷い言葉の連続でした。食事の席でビールを飲んだ楳木先生の開口一番は「(発表文を)出さない方がいい」でした。先生は何を言ってるんだろう、この発表文の意味を先生は分かっていないのかと驚きました。そして、それから先生の口から出てくる言葉は信じられないほどの酷い言葉の連続で私の頭の中は真っ白になりました。その場で泣いてしまわないようにすることだけで精一杯でした。「(発表を)頼んだわけでもないのに」とか、「また読まされるのかと思ってる人もいるわけだから」とか「長くなってすみませんでした、ぐらい入れてよ」と言われました。ふてくされてるような言い方でした。その時は私も頭の中が真っ白の状態だったので先生が御自身の感情をぶつけているということもよく理解できず、私は苦しんでいる人達をメシヤ様に繋げるために自分の恥を晒して体験談を作っているのになんですみませんでしたと私が謝らないといけないんだろうと思いました。あまりにも酷い言葉の連続で私の頭の中も真っ白で、言葉による拷問のような時間が一時間はあったと思います。そんな中なんとかその場を乗り切り、家に帰ってから布団の中で涙が枯れるまで泣きました。

二度目の発表は先生から依頼されたわけでもなく私自ら発表したいと言いだし、教団代表への配慮も欠けた自分の思うままに書いた文章だったので先生が気に入らなかった気持ちも分かります。そして、先生には大祭での発表をあくまでも「メシヤ様への御守護報告」という形態を求められました。これが私と楳木先生との衝突の根幹だと思います。もし本当に頂いた御守護の感謝をメシヤ様へ報告するという形態なら私は地上天国祭での発表文も五分程度で終わる短い文章に仕上げています。私が発表した内容は人には絶対言いたくない話ばかりです。ですが、これを自分の使命と思い、同じように苦しむ人達をメシヤ様へ繋げるために作り上げた文章なので先生が望むような文章にはできませんでした。そして、二度目の発表文の中には図々しくも最後の審判にも触れています。これは私が文章に書くのではなく、先生に助言して先生の口から言ってもらうようにした方がよかったんじゃないかとも思いました。私が作った文章は先生が望むような文章ではなく、先生にとっては腹立たしく思うような文章の書き方だということも分かってはいましたが、楳木先生ならきっと分かってもらえるだろうという思いで作り上げました。ですが、楳木先生には分かってもらえませんでした。

先生からは「地上天国祭の時と違う内容でも聞き手にとっては同じ内容だから」という理由で一部文章の書き換えを要求されました。後日仕方なく文章を作り直して先生にメールで送りましたが、それも先生のお気に召さなかったようで、提案という形でしたが大幅な文章の変更を求められ、細かい内容を指示されました。その内容は私が発表したい内容とは全く違う先生に都合がいいだけの内容でした。それでは私が発表文を出す意味が全くなく、電話でもまた「(発表を)頼んだわけでもないのに」と嫌味を言われたので、こんな状態では出すわけにはいかないと思い、「頼まれたわけでもないのに図々しいので今回の発表は辞退させて下さい」と返しました。そして、私が作った発表文はいずれブログで出すという話になりました。ブログを作るといっても私はやり方も分かりませんし、先生との関係がこじれた状態ではそんなことはできないと思いました。それに一度長文で作りあげた文章をブログ用に作り直す作業なんてやる気も出ませんでした。そして、いろんな思いを抱えながら平成二十七年に箱根で行われた御降臨祭を最後に私はメシヤ教への参拝をやめました。

そして、我が家では父が大変なことになりました。平成二十八年一月下旬、父が突如とてつもなく恐ろしい精神病となりました。我が家で起こったこと、私の身に起きたこと、何もかも書き記していこうと思います。