平成二十七年メシヤ教御降臨祭での未発表の体験談3

献金地獄の生活』

献金についても報告したい体験談があります。私は小学一年生の時から献金に対して嫌悪感を抱いてきました。当時、私の住む地域は献金を煽られて全国で一番になったことがあるほどです。百万の献金をする信者さんの家庭がいくつもありました。おそらくどの家庭も家計が苦しくなり大変だっただろうと思います。その時我が家も同じように献金しています。おかげで我が家は献金地獄に陥りました。母の口癖は「お金がないんだから我慢しなさい」でした。小学一年の時、遠足に持って行くシートを失くしてしまったので、シートを買ってほしいと母に頼んだら、眉間にしわを寄せながら「お金がないんだから我慢しなさい」と怒鳴られました。その時から私の遠足の時のシートはゴミ袋になりました。遠足の日の朝、母に「黒と青のゴミ袋どっちがいいけ?」と聞くと「青がいいんじゃない?」と平然と答える母。「お母さんは私が惨めな思いをしているのに何とも思わないのか。お母さんは世間知らずなだけなのか」ととても悲しい思いをしました。誕生日プレゼントやクリスマスプレゼントを買ってもらっている周りの家庭の子が羨ましくて仕方がなかったです。小学三年生の時に誕生日にどうしてもプレゼントを買ってもらいたくて妹と二人で泣きながら母にお願いしたら、母が次の日布教所の帰りに私と妹に同じ物を買って来てプンプンしながら渡してくれました。プレゼントを買ってくれたのは嬉しかったんですが、そのおもちゃは三、四歳の子供が遊ぶようなおもちゃでした。母には失望しました。母からプレゼントを買ってもらったのはその時限りでした。洋服は母方の祖父の知人の方が送ってくれる服をもらうことが多く、私は遠足や学校の行事の時に着るジャージも持っていなかったので、遠足の時などは貰い物の水色のジャンパーを着て行っていました。男の子は黒や青、女の子は赤の上下のジャージを着ているのに自分だけ体操服の上に水色のジャンパーを羽織るだけだったので、足が寒く、すごく恥ずかしかったです。我慢しなきゃ、我慢しなきゃと思っていましたが耐えられず、祖母なら買ってくれるんじゃないかと思い、小学二年生の冬休みか春休みの時に母方の祖父母の家に遊びに行った時にジャージを持っていないという話をしたら、祖母がジャージを買いにデパートに連れて行ってくれました。ものすごく申し訳ない気持ちでした。

小学三年生に上がった最初の遠足の前日、私は大きな衝撃を受けました。小学一年生になった妹が遠足の前日に一人でバスに乗って遠足用のシートを買いに行ったんです。母が布教所の事務の奉仕をしていて、しょっちゅう自分達もバスに乗って布教所に行っていたのでバスの乗り方も分かっており、夏休みや冬休みの時など母方の祖父母の家に遊びに行った時に祖母がお小遣いをくれることがあってお金も少し持っていたので、妹は自分のお金で遠足用のシートを買いに行ったんです。私は妹のことを「なんて頭がいいんだ」と思いました。私は「お金がないんだから我慢しなさい」と怒鳴る母に怯え、純粋に従って我慢していたんですが、妹のように自分のお金でシートを買いに行っていれば惨めな思いをしなくて済んだんだと気付きました。父に頼めばシートやジャージぐらい買ってもらえたはずですが、その当時は母に言われるがまま我慢し、父に頼むという知恵もありませんでした。

母は「お金がない、お金がない」と言いながら毎月の一割献金は欠かしませんでした。お金の御用をして自分の癲癇の病気を治していただきたい、家庭が明るくなるように御守護をいただきたいと願いを持っていたんだと思いますが、家庭を犠牲にしてまで一割献金をする母を見ているのも辛かったです。「お金がないんだから我慢しなさい」と言われ続けて育ったので、私は「一割献金」という言葉も大嫌いです。一割献金するお金や大金を献金するお金があるなら学校で必要な物ぐらいちゃんと揃えてほしかったです。一年に一度の誕生日やクリスマスの時ぐらいプレゼントを買ってもらいたかったです。ただ、プレゼントは買ってもらえなかったですが、毎年クリスマスケーキとバレンタインのチョコだけは買ってもらえました。それはMOAで毎年販売されていたからです。母が生きていた間は我が家の食料は九割五分ぐらいMOAから購入していました。市販の物を食べるよりはだいぶ安全だったとは思いますが、値段が高いので我が家の家計は火の車で、父と母はお金のことでもよくケンカをしていました。そんな状態でも母は一割献金を欠かしませんでした。辛かった子供時代のことをずっと引きずったまま大人になってしまい、社会人になっても心からの献金ができずに苦しんできました。「献金は義務としてしなくてはいけないもの」という感覚になっていて、心がこもっていない状態で無理してやってきました。

献金による奇跡』

ですが、一度だけ献金による奇蹟を見たことがあります。私が小学四年生の時、母の体の胸のあたりに湿疹ができました。それがだんだん広がっていって、二年経った頃には湿疹が体全体にまで広がってしまい、お風呂上がりには全身真っ赤な地図型模様の湿疹が浮かび上がっていました。その湿疹が献金によって綺麗に治るという奇蹟を見ました。我が家には父方の祖母が一緒に住んでいて、祖母が年金を毎月ちょっとずつ貯めてきたお金を父と父の姉二人と母にくれたことがありました。祖母には「このお金は献金するんじゃなくて自分の好きなことに使いなさい」と言ってもらったお金だったんですが、母は迷わず全部献金しました。そしたら奇蹟が起こったんです。家庭を犠牲にしてまでやってきた献金、毎月の一割献金では何一つ御守護がないどころか、お金のことでしょっちゅう父と母の争いも起き、家族みんな苦しんできたのに、母が自由に使っていい自分だけのお金を献金したら神様から御守護をいただいたんです。

『 自分の失敗によって献金への嫌悪感が消える』

献金による御守護も自分の目で見て知っていますし、「神様からいただいた御守護に対して感謝が足りていないと神様に借金したことになる」という御教えもありますが、メシヤ教の月次祭に毎月参拝に行くようになり、たくさんの御守護をいただいても、昔の心の傷が癒えていないままなのでどうしても心からの感謝献金ができずにいました。その苦しみからやっと解放される出来事がありました。

離婚して実家に戻ってから一年経ちますが、我が家の御神体はまだ東方之光の大光明のままです。去年実家に戻って来てすぐ年末ミニジャンボ宝くじを購入して、「御神体と御写真をいただくお金と御神前の壁紙を白くするためのお金を運んで下さい」と大黒様にお祈りしたら七十万円当たりました。このお金は御神体をいただくために当たったんだから別なことに使ったらいけないということは十分分かっていたんですが、御神体をいただく前にどうしても母方の先祖を祀りたいという思いがあり、仏壇や位牌を購入し、両家に観音様の霊壇用御神体をいただいたり、箱根強羅への参拝に行く費用などに使ってしまいました。それで、早く御神体をいただくための資金を貯めないとという焦りもあり時給のいい派遣の仕事を始めました。ですが、その仕事は早くても家に帰り着くのが夜七時過ぎで、シフトの関係上三分の二は帰り着くのが夜九時過ぎになってしまい、四歳の息子には可哀想な思いをさせ、面倒を見てくれる父にはストレスをかけることになってしまいました。家に帰って子供が寝ているのを見ると、子供と触れ合うのが朝子供を幼稚園に送り出すまでの三十分ぐらいしかないことに胸が痛みました。私が小学生の頃、母は布教所の事務の奉仕をしていて週に三日か四日は布教所に行っていて、帰ってくるのが小学校に通う私と妹よりも遅かったので、「もっと早く帰って来てくれればいいのに」とよく思っていたんですが、私はその母よりももっと帰りが遅く、子供に可哀想な思いをさせてしまいました。家庭を犠牲にしてまで献金をしていた母と同じような失敗をしてしまったと思いました。元々二カ月間だけの短期の仕事だったのが延長されることになり、稼げる仕事だったので続けようと一度は引き受けましたが、子供を犠牲にしてまで焦ってお金を稼ごうとするのはやめようと思い辞めることにしました。自分が母親と同じような失敗をしたことでようやく吹っ切れ、長年の献金への嫌悪感を解消することができました。

シングルマザーとなった以上はどうしても働かないといけないので夕方までは幼稚園に子供を預けますが、ちゃんと夕方には帰れる仕事をしていくつもりです。御神体をいただいて来訪者に浄霊をお取り次ぎできる環境を早く整えたいですが、一人で焦らず家族で協力して御奉斎できるように頑張っていこうと思っています。